■Mission Code "BAJA CHICKEN"


予備知識:
SCORE BAJA1000とは?
SCORE INTERNATIONALがオーガナイズする世界最長の公道レース。舞台はメキシコ西部に位置するバハカリフォルニア半島で、根元にあるティファナから最南端のサンルカス岬までは約1250km(ちなみに日本の本州は約2000km)。6月にBAJA500、11月にBAJA1000が開催される。数字はそのまま距離(km)のことと考えればいいみたい。ただし4年に1度、1000マイルになったり2000キロになったりする模様。2007年末には開催40周年を迎え、スタート地点のエンセナダから南端の町カボ・サン・ルーカスまで1296マイル(2085km)のレースが行われたばかり。
公道レースと言っても、コースの大部分は土と砂と岩ばかりが続くむき出しの大地。プロのレーサーからアマチュアライダーまでライセンスに関係なく参加し、トップクラスの連中はそこを時速100kmオーバーで文字通りぶっ飛ばしてゆく。マシンもバイクだけではなく、ATV、トロフィートラック、バギーとさまざま。2006年に日本でも公開された映画「Dust to Glory」を見れば、この地球一クレイジーな公道キャノンボールレースのことをより多面的に知ることができます(予告編が見れる公式サイトはコチラ)。この映画の中である人はBAJA1000のことをこう言っている。「24時間続く墜落事故みたいなものだ」と。
■俺とBAJA
モトクロスモトクロス言ってたのにいきなりBAJAかよ!? と感じる人も多いようなので、まずは俺とBAJAのこれまでの関係性を書きたいと思う。実際にBAJAに出てきた方からすれば単なる「にわか脳内BAJA厨」でしかないんだろうけど、ココを見ている人の多くは俺の感覚に近いんじゃないかと。会社組織に属している単なる一般人である俺の冒険は、実はアナタの冒険でもある。そんな風に自分と重ねて読んでいただけたら幸いdeath。

■終わりかけの花火
90年代中盤。まだ世間一般にインターネットが浸透する以前、高円寺のボロアパート(家賃4万5000円)でFM-TOWNSを草の根ネットに2400bpsでつないでいた時代のこと。二輪免許取得が20代になってから、という遅咲きライダーの俺にとって雑誌でその存在を知ったBAJA1000は、91年にはじけたバブル期同様"すでに終わったお祭り"のようなモノだった。「猫も杓子も」と揶揄された日本人のBAJA参戦ブームも過去のこと。普通のバイク屋さんで「BAJA行きたいですねぇ」などと言おうものなら「へぇ~……(今のご時世にまだそんな夢みたいなこと言ってんの?)」と冷ややかな視線をいただきかねない雰囲気さえ漂っていた。つまり、その頃すでにBAJA1000は、ホントにホントの「スキモノ」だけが目指すスペシャルステージだったのだ。
その後も時折オフロードバイク雑誌に載るBAJA特集にトキメキを隠しきれなかった俺は、「やっぱり空冷4ストロークだろ!」とばかりに発売したてのXR400R逆車レーサーをライダースランドYOYOでお買い上げ(24回フルローン)。当時住んでいた埼玉の家から職場のあった御茶ノ水まで、BAJAばりの腰引き全開走行で通勤した挙句、メキシコ警察の光電管トラップに引っかかり55km/hオーバー→一発免停食らって凹んだりしていた。
そんな俺をオフロードバイクの世界に引きずりこんだ張本人であるポンキチは当時XLR250BAJAに乗っていたが、基本的にツーリング志向のライダーだったためBAJA1000について盛り上がれる特定の相手はいなかった(それはモトクロスに関しても同じだったケド)。さらに、ちょっとした見解の違いから当時通っていたバイクショップに絶望した俺は、夢に描くようなお店の影を追い求める孤独な日々を送っていた。そんな折、偶然見つけたのが環八井荻トンネル上にあるオフロードバイク専門ショップ「サラ・エンデューロ・イクスペリエンス」の雑誌広告だった。
■リアルBAJAライダーとの出会い
当時、俺が知っていた日本人BAJAライダーと言えば、風間深志さんや戸井十月さん、ウイリー松浦さんとか元ガルル編集長の内田稔さんあたり? 今みたいにインターネットがそれほど普及してなかったせいもあるけど、要するに雑誌の中の人たちばっかりだった。だから、サラ店長の(バハさんならぬ)馬場さんがBAJA出場経験アリ、と知った時に抱いた畏敬の念は今も鮮明に覚えている。そして「そのお店でバイクを買ったお客さんしかバイク屋さんはまともに相手してくれない」という都市伝説を信じていた俺は、なぜかそこでXR400Rを下取りしてもらって最新型のXR400Rを再購入(なんだそりゃ)。実際はそんなことなかったんだけど、今思えばそれが俺の"ガッツリお世話になりたい宣言"だったんだと思う。
かくしてサラのお客として一緒に遊んでもらうことになった俺は、暇さえあればお店へお邪魔して店長やいろんなお客さんたちの話を聞くようになる。楽しいのはやっぱりBAJAの話だった。サラの近所にあるショップ「バイカーズモト」の店長・本村さん--2000年のBAJA2000(マイルだよ!?)をスポーツスターベースの改造車BAJA STARで完走--が加わると、冒険旅行の思い出話はますます尽きることがなかった。雑誌には載らないような本当に細かなディテールを聞いているうちに、どんどんBAJA1000というレースの魅力に引き込まれていく。雑誌屋さんやプロライダー以外の一般の人たちが、いったいどのように生活と折り合いをつけてBAJAに出ているのかも知った。「一度ツーリングででも行ってみたら楽しいですよ」と店長に冗談交じりに言われることもあった。それでも、まさか実際にBAJAに行こうなんて気持ちには全然ならなかった。それぐらいBAJAは遠い存在だった。
■ぼーいずびーあんびばれんつ
当時の俺は週刊誌よりも過酷と言われる隔週雑誌の仕事をしていた(notバイク関係)。朝も夜も土曜も日曜もなく会社にいる日々。とても2週間近い休みを取れるような生活ではない。ペーペーだったこともあり、行ったはいいが戻ってきたらデスクがない、なんてことがリアルに起きそうな現場だったし、そこまでの覚悟もなかった(技術はもっとない)。モテ目的から口先だけで「いつかはBAJAへ行きたいんですよ~」なんて言うことはあっても、仕事はどんどん休みの取れない状況になり、"夢"だったBAJAはいつしか"夢のまた夢"へと変わっていった。
その後、会社を変わったりダーヌポを立ち上げたりしているうちに時はアッという間に過ぎ去り、俺自身三十路を超えていた。オフロードバイクへの興味はますます募っていったものの、それはモトクロスだったりエンデューロに対してであり、もはやBAJAは年末に雑誌でチラリと見かける(それさえ少なくなっていたと思う)だけの存在でしかなかった。そんな頃、BAJAへの情熱を熱く燃やし続ける変な人たちの存在をインターネットで偶然知ることになる。それがスーパーボール・インコーポレイテッドだった。
■ミカミ変酋長登場
現在FREERIDE magazineを発行しているスーパーボールも、当時はBMXの専門誌なんかを作っている小さな編集プロダクション(?)だったと思う。BMXに特別興味もなかった俺のアンテナに引っかかったのは、スーパーボールが自社のWebサイトにアップしていたBAJAの参戦記。最近FRM本誌で再掲載されたので読んだ方も多いと思うけど、とてもみずみずしいBAJAレポートに忘れていた気持ちが蘇ったような気分だった。
X-GAMESにも造詣が深いということを後から知り、急激に興味を持った俺はなんと雇ってもらおうと思い立ち、直接スーパーボール事務所を訪ねてゆく。正直「そんな行動力あったっけ俺?」という感じなのだが、今の状況を思えば何か運命的なモノをヒクヒクと一方的に感じていたのかも知れない(または持ち前の子分肌)。駒沢にある小さなオフィス(小さい小さいって失礼ですねw)を訪ねると、コックピットみたいになったデスクスペースからのっそりと出てきたミカミ変酋長がコーヒーを淹れてくれた。俺はオフロードバイク雑誌についての企画や考え方なんかを一所懸命語ったんだと思う。しかし、ミカミ変酋長はひと通り俺の話を聞いたあと、それについてはさほど興味がない、といった様子(つまりいつもの調子)で「俺さ~、BAJAの本が出したいんだよね~(←ナゼか超うれしそうに)」と言ったのだった。
「( ゚д゚)いまBAJAの本ですか?」俺は確かそんな反応をしたと思う。さらにいろいろ話した結果、今は人を雇うつもりはない、ということ、本当にこの人はBAJAが好きなんだな、ということ、今俺が考えている方向性とは少し違うんだな、ということを知りスーパーボールを後にする。それからおよそ1~2年くらいの間、俺も別の仕事が忙しくなってしまった(またしても会社に寝泊りする日々)こともあり、ミカミ変酋長とはこれといった交流もなかった。そんなある日、スーパーボールから一冊の本が出版されたことを知る。それこそが「DESERT RIDE AND DAYS IN BAJA」だったのだ。
■DESERT RIDE AND DAYS IN BAJA
美しい写真と旅情あふれるテキストでBAJAの素晴らしさに迫ったこの本は、それまで雑誌で読んだような「俺ちゃんが行って来ましたレポート」ではなかった。本から暑苦しいほどビンビンに製作者の意図が伝わってくる。実際にBAJA1000に出場するための方法や装備・費用・手順についての解説や、メキシコの生活で必要となる様々な情報&半島地図、レース中に役立つ簡易スペイン語講座やBAJAライダーたちの経験談など、まさにBAJAガイドブックと呼ぶにふさわしい内容。それらはすべて「お前だって冒険の旅に出られるんだゼ」というメッセージだった。
俺は当時のバイク雑誌業界でこんな本を作れる人たちがいることに素直に感動して、入手後すぐにミカミ変酋長にメールを打った記憶がある。ダーヌポでも絶賛したので購入された方もいると思う。そしてこの本の存在と、FREERIDE magazine創刊をきっかけに、またスーパーボールとの付き合いが始まることとなる(家が近いのをいいことに俺が勝手に仕事場にあがりこんでコーヒー飲む、ってだけの関係だけどね)。なんとなく目標を見失っていたこともあり「いつかはBAJAへ」の気持ちが再燃し、いつやってくるかもわからぬチャンスのために体を鍛えてみたり、ある程度バイクに乗れるようになろうと地味に動き始めたのもこの頃だった。とはいえ、生来の非がっつき体質もあってか、「絶対に、ぜぇぇったいにBAJAに行くぞ!」と強く念じていたワケでもなく、なんとなく目標ある俺ちゃんが好き、みたいなユルい話でしかなかった。
■一通のメール
ところが、昨年の2月に35歳になった俺は、四捨五入して四十という現実に少なからず引いた。四十代、五十代でバリバリにバイクを楽しんでいる先輩がたを知ってたから「若造が何を言っておるか」という意見も分からないではなかったが、やはり焦りの気持ちがあった(だいたいそういう人たちは若い頃にやるべきことをやっていたし)。そこで、愛読していたWebサイト「モトクロスのススメ」に書いてあることを実行することにした。CRF150RIIとトランポを購入しての短期間集中モトクロス講座。とにかく、あんまりにもヨチヨチな状態では、仮に何かのチャンスがあってもモノにできないし、楽しめないと思ったのだ。単純にオフロードを走るテクニックを身につけるだけならモトクロスが一番の近道、と書いてあったのは本当だった。
当たり前だけど、趣味で楽しむモトクロスはさいこう! まぁ正直どれほど効果があったかは謎なんだけど、おかげで林道を走ったりする分には恐怖を感じることはなくなっていった(レベル低くてすんません)。一緒に遊んでくれる知り合いも増えたし、来年も楽しくミニモトやっていくぞ~、と思っていた。もちろんBAJAへの興味は消えてなかったけど、ミカミ変酋長たちのCL72 ADVENTUREをWebで追っかけたりしてるだけで満足していたし、そうやってBAJAの話題に触れられるだけで楽しかった。モトクロス修行はあくまでも「なんかあった時のため」でしかなかったのだ。
そんなある日のことだった。俺のところに一通のメールが届いたのは。(つづく)